kekeの部屋から音楽やゲームの音が聞こえてくると胸がいたくなる。
社会人ではないし、学生とも言い難い。
新聞だったら、たぶん「無職」である。
いつまでこのままなのか。
「死んでわびたい」と言う言葉が浮かぶ。
でも、誰に何を?
10年後の私だったら、何て言う?
そんな風に考えて、10年前の私に、今の私は何て言うだろう。
あの頃はkekeは中学2年で、野球部に入って、朝練もしてたっけ。
私が初めて会社の飲み会に出たのはその年だった。
それまでは必死で早く帰ってきた。
何があっても、kekeを置いてどこかに行くことなんてありえなかった。
あの頃の私に今の私は何て言うだろう。
「よくやってるね。がんばってるね。」
でもそれ以上のことは何も言ってあげられない10年後の今。
死んでわびたい。
kekeがよく言っていた「死んでしまいたい」と言うのは、たぶん、きっとこの
死んでわびたい、ではなかったのか。
自分なんて、いなくなってしまえばいいと。
いったい、誰に私達はおびえて生きているんだろう。
まだ、誰にも迷惑をかけてはいないのに。
ただ働いていないと言うだけなのに。
カマキリだってエサが取れなければ死ぬ。
でも、ただ死ぬだけで、何も言われない。
命は尊重される。
どうして私は、その言葉におびえて暮らさなくてはいけないのだろう。
働けるうちは働いて
食べられなくなったら、死んでしまえばよいだけなのに。
どうして、責められなければならないのか。
そう思った時、自然に「死んでわびたい」と言う言葉が浮かんでくる。